四方八方 ~旅行と子猫日記~

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 鞆城は、戦国時代に瀬戸内海の要衝・鞆港をにらむ丘に築かれた海城です。


 16世紀初頭、勢力を備後の国(広島県東部)に広げた尼子氏に対抗して、毛利元就が天文年間(1532~1555)に築城したものと推定されています。


 元亀4年(1573)、織田信長に京都を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭は、毛利家を頼り、この鞆城に入城しました。


 以来、城は拡充され、将軍の御座所となります。


 因みに、初代将軍・足利尊氏も、京都を追われ九州から再度上洛をする際、この鞆にて光厳院から院宣を賜りました。


 そのため、「足利は鞆で興り鞆で滅びる」という言葉もあります。


 足利将軍家とは深い縁のある地ですね。


 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、毛利家が領地を没収されると、代わって福島正則が安芸・備後に入封しました。


 この時、この鞆城も改修が行われたようです。


 慶長12年(1607)の朝鮮通信使の日記に、「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」との記述があるそうです。


 その後、元和6年(1615)の一国一城令に先立って廃城となりました。


 福島正則改易後は、徳川譜代の水野氏、阿部氏がこの地を治め、町奉行所を置いていたということです。







 現在は郭、帯郭、土橋、枯山水、石垣、堀といった遺構が残っているそうです。


 天正年間以前の石垣は、自然石を積み上げた野面積み、それ以後は、小石をはさみ表面を揃えた打込みハギ、江戸初期には切石で表面を揃えた切込みハギという石垣の組み方が用いられています。


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 常山城の歴史は、上野隆徳の祖父・上野肥前守が延徳2年(1490)に備中から児島へと移ったことに始まる。


 彼は常山城を本拠として、児島熊野社領を横領し北部へと勢力を拡大した。


 源平合戦の頃の児島は今のように陸続きではなく、藤戸合戦では源氏方の佐々木盛綱が馬で海を押し渡り平家軍を破っている。


 その後、河川の運ぶ土砂によって児島は備中と陸続きになったが、児島湾(現児島湖)が北東に入り込んでいた。


 このような地勢のもと、常山城は四国と備中を結び、また備中の南から備前へ廻り込む通路を押さえる要衝にあったことになる。


 上野隆徳は備中の覇者・三村家親の娘、鶴姫を嫁に迎え、この常山城にて三村氏の勢力圏の最南端を担っていた。


 三村家親が備前へと侵攻し宇喜多直家に暗殺されると、三村家にとって宇喜田直家は不倶戴天の敵となる。


 しかし、情勢は変わり三村氏の後盾であった毛利氏が宇喜田氏と結ぶに及んで、三村氏は織田氏と結び毛利氏に叛旗を翻した。


 ここに備中兵乱が勃発。


 毛利氏の大軍を引き受けて、三村元親は備中松山城にて滅亡の憂き目をみることとなった。


 常山城は三村本家が滅びたことから毛利氏への降伏の道もあったが、上野隆徳は三村元親の妹婿であったし、その元親に毛利氏への謀反を勧めたのは自分であるとしてこれを拒否した。


 こうして天正3年(1575)、毛利氏は小早川隆景を大将とする大軍を常山城に差し向けた。


 迎え撃つ城兵はわずかに200。


 既に、討死を覚悟した侍達ばかりであった。


 6月4日、城を包囲した毛利軍は、6日からいよいよ攻撃を開始することとなった。


 しかし、城方は攻め寄せる兵を近くまで引き寄せて矢弾を見舞ったため、攻撃側に死傷者が続出した。


 明けて6月7日、再度の攻撃を試みる毛利軍に対し、城方はまたも矢弾を見舞った後に、上野隆徳、嫡子の高秀、弟の高重が城の城戸を開いて討って出た。


 死を覚悟した城兵の突撃に、先手の浦宗勝の兵はたちまち15、6人が突き倒された。


 これに続いて、侍女が押しとどめるのも聞かず、上野隆徳の妻・鶴姫が、「武士の妻が一騎も討たずに自害するのは口惜しい。」と言い放って突撃した。


 侍女と城兵83人も続いて斬り込んだので、寄せ手に多数の死傷者が出た。


 しかし、いかんせん多勢に無勢。


 次第に城兵も討たれていったため、鶴姫も最早これまでと先手の大将・浦宗勝に三村家伝来の国平の太刀を投げ、「後生を弔って欲しい。」と言い放って城中へ引き返した。


 城内に入った鶴姫は、敵兵を防いでおくよう言いおき自害した。享年33歳。


 上野隆徳の嫡子・高秀も続いて切腹した。享年わずか15歳。


 上野隆徳は嫡子の介錯をした後、本丸の大岩の上にて切腹。


 弟の高重はその介錯をつとめた後、自らも自刃した。


 こうして常山城は落城し毛利家の支配下に置かれることとなった。


 小早川隆景は山本四郎左衛門・渡辺伊豆に城番を命じた。







 常山合戦の2年後の天正5年(1577)、毛利氏は常山城を宇喜田氏に与えたので、宇喜田直家の股肱の臣・戸川秀安が代わって入城した。


 天正7年(1579)、宇喜田氏は毛利氏を見限り、今度は織田氏につく。


 これに対し毛利方は、小早川隆景を大将として1万5千の大軍で備前へ押し寄せた。


 しかし、宇喜田勢は当主の直家が病床であったにもかかわらず、弟の宇喜田忠家を大将に7段の陣を構えて待ち受け、戸川秀安の子息・逵安(みちやす)の伏兵をもって背後を突きこれを撃滅。


 世に「辛川崩れ」というこの合戦で、小早川隆景は崩れ立つ味方に成す術無く引き上げた。


 翌天正8年3月、雪辱を期す小早川隆景は常山城付近に進出。


 しかし、これを宇喜田氏本城の岡山城兵をおびき寄せ、背後を断っておいて本拠を攻め取る作戦と看破した戸川秀安は、城の守りを固めて岡山城へも援兵をよこさぬよう申し入れた。


 結局、中国地方に進出してきた織田家の羽柴秀吉の援兵が来るとの報で、小早川軍は引き揚げをせざるを得なくなった。


 常山城からは追手の兵が進出して、多数の小早川兵を討ち取った。


 この後、天正9年(1581)にも毛利軍が児島に進出してくる。


 この時、宇喜多直家は死去していたが、弟の基家が総大将となり八浜合戦が行われた。


 当初、劣勢に立たされた宇喜田方は、大将の基家を流れ弾で失い敗色濃厚となったが、後に八浜七本槍と呼ばれた殿軍の侍の活躍で巻き返し、逆に毛利勢を散々に撃ち破った。


 この後、備中高松城の水攻めを経て、毛利と羽柴・宇喜田の間で講和が成立し、戦乱の時代は終わった。


 常山城は戸川秀安から子息の逵安(みちやす)へと受け継がれたが、慶長4年(1599)に宇喜田家で起きた家中の派閥争いで逵安(みちやす)は宇喜田家を去り、徳川家に預けられた。







 翌年、関ヶ原の戦いで宇喜田氏が没落し、代わって小早川秀秋が岡山城主となると、伊岐真利が常山城に入城した。


 小早川氏も秀秋の病死により断絶すると、慶長8年(1603)に池田輝政の子・忠継に岡山城が与えられた。


 この年、常山城も廃城となった。


 資材は下津井城(倉敷市南部)の改築に用いられたという。


 下津井城は瀬戸内海の海上交通をにらむ要衝にあり、江戸時代に入って海上交通の重要性が増したことや常山城の戦略的価値が薄れたことによる。


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 楪城は別名新見城とも呼ばれ、鎌倉末期の正応元年(1288)から永仁元年(1292)頃に新見氏によって築城されたものと考えられている。


 鎌倉時代には各土地に配置され次第に力をつけた地頭と、名目上の土地所有者である荘園主との間で土地を巡る紛争が絶えなかった。


 新見庄も鎌倉時代に、地頭と領家の間で土地(下地)を折半(中分)する紛争解決手段である下地中分が行われ、東方地頭方、西方領家方に分割された。


 建武の新政で後醍醐天皇が領家方の庄園を東寺に与えると、新見氏はこれを狙い代官職を求めて政治工作を行ったり、実力行使に出たりしていたようである。


 新見氏はこの後、地頭職を失うが、文亀元年(1501)から天文11年(1542)の国経の時代には、領家方東寺領と地頭方相国寺領の代官を務めている。


 この時期、新見氏は尼子氏に服属しているが、山陰を中心に絶大な勢力を誇った尼子経久(1458~1541)の後盾は大きな力となっていたであろう。


 その後、国経の弟の貞経が跡を継ぐが、尼子経久の死と共に尼子氏の勢力が後退する。


 この尼子氏に代わって勢力を強めたのが毛利氏である。


 この毛利氏と結んだ鶴首城(かくしゅじょう)の三村氏が侵入して来たため、新見氏は滅ぼされ、貞経は行方不明となった。


 そして永禄10年(1567)、新見氏に代わって三村氏の一族である三村元範が城主となり入城した。


 こうして三村氏は、尼子氏に備えるべく楪城の大増築に着手する。


 二の丸と三の丸はこの時期に拡張されたものと考えられている。


 しかし、天正3年(1575)に備中兵乱が勃発。


 毛利氏が織田信長に追放された足利義昭を庇護し、上洛のために備前の宇喜多直家と結んだため、織田信長は対抗手段として備中の三村氏と結びこれを阻止しようとしたことによる。


 三村氏は先代の家親を宇喜田直家により暗殺されており、宇喜田直家とは相容れぬ間柄であった(明禅寺合戦の記事を参照)。


 結果、毛利方の小早川隆景を大将とする2万騎の軍勢が楪城に押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城した。


 この落城に際して、城方に裏切り者が出て毛利方の兵を引き入れ、端の丸に火が放たれたことは前の記事に書いた通りである。


 城主の元範は10騎ばかりで落ち延びたが、塩山城主の多治部雅楽頭(たじべうたのかみ)景春が50騎ばかりで追撃してきた。


 そして激戦の末に、元範は新見市高尾の石指(いしざし)で討たれてしまった。


 以後、楪城は毛利家の吉川元春のものとなり、元春の家来・今田経高が在番となる。


 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた毛利家は敗れ、楪城は廃城となった。







 城には楪(ゆずりは)の名木が生えていたので、この名がついたという。


 しかし、楪城の名前の由来については、もう1つの説もある。


 即ち、この城の築城者を新見氏ではなく、杠(ゆずりは)氏と考えて、その名に由来するとする説である。


 これによると、源平合戦の時代に相模国の三浦党に属する三浦六郎重行が、摂津国杠峯に居住し杠氏を称した。


 その後、備中守護に任じられた重行は新見庄に入り、矢谷城を築き上げ、その城を杠城と呼ぶようになったという。


 この杠氏と新見氏の関係についてはよく分かっていない。


 守護と地頭で役職も異なるため、二氏が併存していたのかもしれない。


 ただ、杠氏説の根拠となる「杠城由来」には、古文書などに出てくる新見氏に関する記述が無く、信憑性に乏しいようである。


 また、肝心の杠氏についても、詳しいことは分かっていない。


 そのためか、城の案内板では杠氏に関する記述は皆無であった。


 色々と想像力をかき立てられる話である。


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 金川城の歴史は、備前の実質的な守護大名であり、有力な豪族であった松田元成が文明12年(1480)に本拠を南の富山城(岡山県岡山市)から金川に移し、築城したところから始まる。


 以後、松田氏の本拠として整備が進められたと伝えられている。


 次第に力を付けた松田氏は備前西部の領有権を固め、備前守護の赤松氏や守護代の浦上氏と争うようになる。


 特に、赤松氏に代わって力を付けた浦上氏との争いが激しく、浦上氏による富山城攻撃や牧石合戦といった戦が行われた。


 元成から3代後の元盛の代になると、勢力を強めた浦上氏によって次第に領地を失っていく。


 その子、元輝の代には、浦上氏の被官で勢力を強めた宇喜田直家によって、近隣の諸城を攻略されていった。


 こうして勢力を削がれた松田氏は、永禄11年(1568)、遂に滅亡の時を迎える。


 先の記事でも書いた要衝・金川城の攻略にあたって希代の策謀家、宇喜田直家が採った謀略戦を書いてみたい。






 松田元成以来、幾多の戦いを繰り広げた浦上氏と松田氏であったが、松田氏の後盾であった出雲の尼子氏の勢力が弱まったため、松田氏の勢力も弱まっていた。


 永禄5年(1562)、この機を見た宇喜多直家は、松田元輝と和議を結ぶ。


 浦上宗景もこれを了承し、直家の2人の娘の1人を松田元輝に嫁がせた。


 こうして表向きは平穏な関係が続いていたが、直家は松田氏を滅ぼす機会を虎視眈々とうかがっていた。


 そんな中、松田元輝は日蓮宗に傾倒するようになり、領内の寺院を強制的に日蓮宗に改宗させ、従わない寺院を焼き払った。


 また、金川城内にも日蓮宗の道場を設け(道林寺丸跡がこの道場のあった場所である)、領内の者に改宗を強いたので、雑兵や百姓は元輝を恨み領内から去っていった。


 好機と見た直家は、徐々に謀略の手を伸ばす。


 松田家中には、宇垣市郎兵衛・与右衛門という軍略に長けた兄弟がいた。


 直家は、ある日、鹿狩りを所望し居城の沼城からやって来た。


 元輝と鹿狩りを催したが、この時、宇垣与右衛門が鹿と間違われて射ち殺された。


 誰が討ったのかは判明しなかったが、実は直家が家臣に命じて討たせたものであった。


 やがて、兄の市郎兵衛も愛想をつかして退去すると、松田氏の領内の統治は乱れていった。


 直家は更に次の手を打つ。


 永禄11年(1568)7月、金川の西に位置する虎倉城の城主・伊賀久隆と与二郎の親子を招いた直家は、金川城攻略を持ちかけた。


 松田氏の領内は治まらず、近隣の伊賀親子も不仲となっていたので、2つ返事で承諾した。


 こうして約束の7月5日が来た。


 直家は手勢を率いて、金川城と旭川を挟んだ対岸の小山に陣を敷いた。


 伊賀久隆も、予め金川城の道林寺丸に潜入させていた忍びの者を使い、鬨の声を上げさせた。


 この時、松田元輝は城外に外出中であったが、家老の横井又七郎が直ちに兵を集め、城門を固く守らせた。


 急を聞きつけた元輝も城に戻り、搦手(裏口)から城内に入った。


 伊賀勢は鉄砲を撃ちながら本丸に迫ったが、横井又七郎も手勢を繰り出して防戦した。


 櫓に登った元輝は、不意討ちを仕掛けた伊賀親子をなじったが、伊賀勢の兵に射殺されてしまった。


 元輝が討死したため、息子の元賢が代わって指揮を執った。


 しかし、伊賀勢の攻撃が激しく、家臣の松村修理が激闘の末、討死を遂げた。


 翌6日、直家も金川城に手勢を繰り出し、伊賀勢と合流して本丸を朝から晩まで攻め立てた。


 しかし、本丸は防御が非常に固く、寄せ手は多数の死傷者を出しても攻略ができなかった。


 戦いの最中、寄せ手は次第に兵数を増したため、城方にも多数の死傷者が出た。


 本丸を支え切れないと見た松田元賢は、弟の盛明を伴い密かに城を脱出した。


 大将が落ちのびたので、部下の将兵の多くも城を退去した。


 伊賀久隆はこれを察知し、兵を励まし猛攻撃をかけ、ついに城門を破って本丸内になだれ込んだ。


 城に踏み止まっていた松田譜代の家臣達は、多勢を相手に奮戦し、城を枕に討死を遂げた。


 城から退去した元賢は、西の山伝いに下田村まで逃げのびたが、伊賀親子の伏兵と遭遇してしまった。


 元賢は覚悟を決め、敵兵の中に斬り入って討死した。


 弟の盛明は、雑兵に紛れて死地を脱し、備中へ落ちのびた。


 こうして金川城は落城し、南北朝以来続いた松田氏は滅亡した。


 7月7日の明け方のことであった。


 以後、この地では七夕祭を催すことはなくなったと伝えられる。






 宇喜田氏の属城となった金川城には、直家の弟・春家が入城した。


 関ヶ原の戦いで宇喜田氏が没落すると、小早川氏、池田氏と備前の領主が交代する。


 城は小早川時代の慶長8年(1603)に、元和元年(1615)の一国一城令に先駆けて出された幕府の施策により廃城となった。


 池田氏の代になると、金川の要衝に家老の日置氏が配され陣屋が置かれた。


 以後、幕末までこの体制が続き、日置氏と家臣の滝善三郎が神戸事件に巻き込まれる。


 神戸事件については、別の記事で書いたのでそちらを参照されたい。



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 慶応3年12月7日兵庫開港の後、警備していた幕府軍が薩長連合軍に負けて敗走した。


 翌、慶応4年(1868)1月、備前藩に西宮警備の命令が下り、備前藩家老で金川の町(岡山県岡山市御津町)を治めていた日置帯刀以下700名が出発。


 滝善三郎も砲術隊長として同行することとなった。


 同月11日、備前藩兵が現神戸市中央区にある三宮神社付近を通過しようとしたとき、2人のフランス兵(一説では、イギリス兵)が隊列を横切ろうとした。


 隊列の横断は、斬り捨て御免となる程の重罪である。


 現に、これに先立つ文久2年(1862)8月21日、薩摩藩主・島津久光の行列の前を横切ろうとしたイギリス商人ら男女4人が、薩摩藩士に斬られ、1人が死亡、2人が重傷を負った(生麦事件)。


 備前藩兵も当然この横断を制止したが、2人はしばらく並行して歩いた後、強引に隊列に割って入った。


 この時、隊長の滝は馬から飛び降りて、槍で1人の背中を突いた。


 石突(槍の穂先の反対側、槍の柄の底に付いた金具)で突いたのか、槍の穂先で突いたのかは明らかでない。


 突かれた方は逃げたが、もう1人が短銃を構えて行列に銃口を向けた。


 これを見た滝は、「鉄砲!」と叫び、備前藩兵が発砲した。


 これは相手に向けたのではなく、空に向けての威嚇射撃だったとされる(現に、神戸事件では1人の死者も出ていない)。


 この時、英国公使ハリー・パークスが偶然、付近を巡回中だった。


 この騒ぎをみたパークスは、直ちに領事館に戻り、神戸港内に停泊中だった軍艦に非常信号を送った。


 この信号を受け、居留民保護の名目で、英、仏の陸戦隊600人が上陸し、備前藩兵に向かって攻撃を開始した。


 備前藩は直ちに全軍を摩耶山に避難させた。


 しかし、欧米列強の陸戦隊は市街中心部を4日間にわたって占拠。


 さらに、神戸港内に停泊中の日本側蒸気船5隻を抑留し、財貨等を強奪するという暴挙を働いた。


 そうした上で、事件は備前藩だけでなく日本政府の責任でもあると難癖をつけ、陳謝・賠償等を要求し、満足な回答がなければ敵対行為とみなすとまで宣言した。


 備前藩と滝にとっての不幸は、明治新政府が誕生直後で国際的な認知を得ていなかったこと、国内の情勢も未だ不安定であったこと、強硬で威圧的な外交手腕をもってなる英国公使・パークスが出てきたことであった。


 パークスの強硬抗議に対し慌てた明治政府は、とりあえず事件を起こした備前藩への責任転嫁を図る。


 即ち、発砲を命じた滝善三郎を切腹、責任者の日置帯刀を謹慎させることで、事件の解決を図ろうとした。


 伊藤博文や岩倉具視の助命歎願もあったが、成立した早々に外国からの威圧的態度に直面した明治新政府は、これを退けた。


 備前藩も大局的見地から新政府の案の受け入れを表明したので、新政府は1月15日、神戸で備前藩責任者の処分と新政権の発足を諸外国に対し通告。


 パークスら列強の代表達もこれを了承し、明治新政府は最初の外交事件を解決すると共に、諸外国に対して新政府が日本の統治権を有することを示すこととなった。


 神戸事件が新政府の開国和親政策と国際的な承認を得ることのきっかけとなったのである。


 2月9日、滝善三郎は、各国関係者の立会のもと、神戸・永福寺にて見事に切腹して果てた。享年32歳。


 備前藩は滝の功績に報い、4歳の子息を滝の得ていた100石から500石に加増した。






 行列を横切るという国内法に違反した上、軽症を負わされただけで陸戦隊を上陸させ市街地を占拠、日本船の抑留と金品強奪まで行った列強に対し、備前藩の有望な士が死なねばならない理由はどこにもない。


 滝にしても、今の今まで尊王攘夷(天皇を立て、外国人を排斥すること)で大政奉還が成ったと信じていたのに、法を破った外国人に対し威嚇発砲したら、思いもかけず切腹を命じられることとなった。


 現に、最後の手紙でそのような思いを書き残している。


 しかし、パークスは明治新政府樹立を陰で支えた新政府の大恩人であり、伊藤博文を始めとする新政府首脳もパークスに従う他なかった。


 パークスは、新政府が発足したのに関係者が列国代表に正式の挨拶をしてこない、などと交渉の席で強くなじったという。


 神戸事件を新政府への揺さぶりと、その統治能力の有無を確認するために利用したという側面もあっただろう。


 明治新政府も旧幕府軍を相手の国内掃討戦が待っており、列強の機嫌を損ねれば、たちまち窮地に立たされかねなかった。


 結果、唯々諾々と列強の言い分を認める屈辱的な外交を展開することとなった。


 しかし、この屈辱的な外交の内容が知れれば、今の今まで尊王攘夷を高らかに掲げて江戸幕府から大政奉還させたこととの矛盾を生じ、新政府への非難が高まりかねない。


 備前藩と滝は、これらの状況を理解し、腹に据えかねる処分を黙って受け入れた。


 明治、大正を通じて、岡山はもちろん、滝の故郷である金川の町でも神戸事件について語られることは少なかったという。


 明治政府が供養さえおおっぴらにさせなかったという話もあるらしい。


 備前藩の関係者達も一様に口をつぐんでいたようである。


 近くの郷土資料館で、神戸事件についての映像を見せてもらったが、当時の備前藩名うての剣豪から話を聞いたという方が、その剣豪が神戸事件について聞かれると、きっと口を真一文字に結び、はらはらと涙を流したというエピソードを語っていた。


 よほど悔しい出来事であったのであろう。


 ともあれ、滝善三郎の切腹により、新政府の尊王攘夷から開国和親への転換と国際的承認の獲得は成った。


 この後、明治新政府は、命令により年貢の減免を触れ回った隊士を、御触れ撤回のために誤報を流したとして切腹させる赤報隊事件を起こした。


 また、戊辰戦争を始めとする国内戦争で、多くの血を流すこととなった。


 こうした事件、戦争を経て、欧米のコピー国家が出来上がり、薩長を中心とした藩閥政治と富国強兵策が進む。


 日清戦争を日露戦争を経て自信をつけた日本は、やがて対米開戦に踏み切り、日本全土を焼土と化して全面降伏の憂き目をみることとなった。


 滝善三郎はいかなる思いで、この明治新政府がつくった国家の行方を見ていただろうか。


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