四方八方 〜旅行と子猫日記〜

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 三村家親を暗殺された三村家は元親が家督を継いだ。三村家からは復讐戦を挑む者もあったが、小勢での無謀な戦に過ぎず、直家に一蹴された。元親はこの状況の中、直家に復讐する機会を伺うこととなる。

 永禄9年(1566)秋、直家は支配領域を拡げるため、上道郡沢田村、明禅寺山(現在の岡山城の旭川を超えて東)に城を築き、軍勢を駐屯させた。


明善寺城付近の地図

操山地図




明禅寺城跡 山の頂上が本丸跡

明善寺跡




 永禄10年(1567)春、三村方が明禅寺城へ夜討ちをかけ、不意をつかれた宇喜田勢の50人から60人が討たれ、明禅寺城は三村方の手に落ちた。三村方は、根矢与七郎、薬師寺弥七郎に150人の城兵を預けて城の守りとした。


 直家は、またしても謀計を巡らせ、賄賂を用いるなどして、先の三村勢の備前急襲で三村家親に降伏した岡山城主、金光宗高と中島城主(現岡山市八幡)、中島大炊(おおい)、舟山城主、須々木豊前を寝返らせることに成功した。彼らは遠く離れた備中に援軍がいるため、すぐに助けを求める事ができないという不安が大きく、簡単に寝返ったのである。


 その上で、直家は降伏勧告の使者を明禅寺に送った。明禅寺は各城主の裏切りによって、敵中に孤立した形になっていたが、根矢、薬師寺らは寝返りを信じず、直家の虚言と思っていたため、降伏勧告を拒否した。もっとも、明禅寺城の兵は少なく、直家が攻撃に出れば到底持ちこたえられないため、備中本国に救援を求める使者を送った。


 これを察知した直家は、明禅寺城を攻めて、後詰め(救援)に来る三村勢を勝手知った備前の地に引き込み、殲滅する作戦を立てた。


 まず、金光宗高に備中勢が後詰めにくるよう誘い出せとの指示を与えた。金光はこの指示を受け、三村元親の姉聟の石川久智へ使者を出し、明禅寺城と連携して直家の軍を挟撃する作戦を提案した。三村元親は、明禅寺城からの報告も同様であったため、これを受け入れ出陣する決意をした。ここに明禅寺合戦の舞台は整ったのである。




 三村方は総大将を三村元親とし、石川久智、植木秀長、庄元祐らが加わり、備中の諸軍1万余を終結させて、一路備前へ進軍を開始した。


 一方、直家は本拠沼城を発し、5千余の軍勢を5段に配置し、先手を明禅寺城へ派兵した。


 三村方は辛川表(現岡山市辛川)で備前の諸軍をも集結させて軍議を行い、次のような作戦を立てた。


 まず先陣を庄元祐の7千余人とし、金光宗高を案内人として南へ進行し、岡山城の南を大きく迂回して旭川を渡河し、明禅寺城へ進出させる。


 中軍を石川久智の5千余人とし、岡山城のすぐ北を通過し原尾島村(現岡山市原尾島)に進出し、明禅寺城を攻める宇喜田勢の背後をつく。


 大将の元親は、中島大炊を案内として8千余人を率い、釣の渡し(現岡山市三野)から旭川を渡河し、四御神(しのごぜ)村(現岡山市四御神)を通り、空になっている直家の本拠沼城を急襲する。


 三村勢は、このように完璧な作戦を描き、3手に分かれて進軍を開始した。




 一方の直家は、明禅寺城の兵と一戦した後、暫く休息を入れていたところに三村勢が3手に分かれて押し出してくるとの報告を受けた。


 これを聞いた直家は、ここが勝負所と察したのか、すぐさま采配を振るって直ちに城を攻め落とせと下知し、自ら真一文字に城下へ駆け入った。兵卒も大将直家の果断な行動を見て、怒濤のごとく後を追い、明禅寺城に大攻勢をかけ、なだれ込んで斬り回り、瞬く間に落としてしまった。


明禅寺城本丸跡

明禅寺城




 アテが外れたのは三村勢である。明禅寺城の兵と挟撃するつもりが、その前提が崩れてしまった。


 そればかりか、先陣の庄元祐が三棹山(現操山)に軍を進出させていたところ敗残兵に行き会い、何事かと尋ねる間もなく、三棹山の山頂に布陣していた宇喜田勢の先手、明石、戸川、長船、宇喜田忠家の諸隊から鉄砲の斉射を受けてしまった。


 勝ちに乗じる宇喜田諸隊は、鉄砲を山頂から釣瓶撃ちにして、敗残兵と出会い落胆する庄元祐の軍勢を混乱させると共に、山頂から鉾先を揃えて逆落としに突撃した為、庄軍は大混乱に陥り、たちまち退却を始めた。


 庄元祐は50人程の旗本を指揮して踏みとどまったが、崩れる味方を見て討ち死にを覚悟し、延原土佐の軍勢に攻めかかった。


 死に物狂いの攻撃に、延原隊は浮き足立ったが、これを見た二陣の宇喜田忠家が、すかさず庄の軍に横合いから突きかかった。庄は、宇喜田の旗印を見て、宇喜田一族に違いないと思い、再度突撃をかけ奮戦するも遂に手負いの身となり、退却するところを宇喜田方の能勢修理に討ち取られた(これは備前軍記の記述によるもので、陰徳太平記によると庄はここで討死したことになっていない)。

 (明禅寺合戦 その3 に続く)


岡山城より操山方面を望む 左の平野が明禅寺合戦の舞台となった

操山



明禅寺合戦 その3 を読む

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