四方八方 〜旅行と子猫日記〜

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 中軍の石川久智は、明禅寺城が落ち先手も敗走した事を知り、大いに落胆した。当初の作戦が2つの敗戦によって崩れ去った以上、作戦を変更せざるを得ない。


 そこで、中島加賀という老練な侍を呼んで相談した。中島加賀は旭川西岸に陣取り、川を渡河してくる宇喜田勢を迎え討つ作戦を提案した。石川久智もその提案に賛成したが、久智の老臣達は従わずにそれぞれ勝手に軍議を開いていた。


 そうしてグズグズしている所へ、宇喜田の本隊、河本、対馬、花房助兵衛らの隊が3手に分かれて攻め寄せた。石川勢は引くに引けなくなり、原尾島村の中道に備えを設けて防戦することとなった。



 
岡山城から原尾島方面を望む
 
 
左手の白と黒の大きなビルの後ろ辺りが四御神

 
右端の山の辺りが直家の本陣のあった辺り

原尾島方面




 直家の本隊は、石川勢の先陣へ鉄砲を撃ちかけつつ突撃を敢行した。河本、花房隊は石川勢の備えの左右に兵を進め、直家の本隊と石川勢の戦闘が激しさを増した頃合を見計らって、石川勢の両側面をついた。その為、石川勢は三方から兵を受け、たちまち混乱を来たし崩れ始めた。立て直す間もなく攻め立てられた石川勢は、中島加賀を始めおびただしい人数が討死を遂げた。


 石川勢は北の中島城の方角に向かって敗走を始め、宇喜田勢も八幡村(現岡山市八幡)辺りまで追撃をした。しかし、石川勢もさるもの、ここで備えを一旦建て直して反撃を試みた。この石川勢の反撃により、勝ちに乗って攻めて来た宇喜田勢は手痛い損害を被り、逆に敗走を始めた。追撃の絶好の機会であったが、先の戦闘で石川勢も甚大な損害を被っていたため、深追いはせずに引き揚げを開始した。




 本隊の三村元親は、四御神村の辺りを通過する頃、明禅寺城に火の手が上がるのを見た。早くも落城したかと落胆している矢先に、先手、中軍も敗走したとの報が入った為、全軍が騒然となった。


明禅寺城より四御神を望む

四御神

 

 元々、元親の呼びかけで集まった各地の豪族の集団に過ぎない。負け戦が濃厚となったとみて、後陣から我先にと引き返し始めた。しかし、この辺りは至る所に小川があって、足場がすこぶる悪い地形であったので、人馬もろともに溝や川に落ちる者も出始め、大混乱に陥った。


 この混乱の最中、元親の旗本勢はさすがに備えを乱さず、家親の仇、直家と一戦すべく南進を開始した。この動きを見た直家も、一旦引いて兵を休めていた明禅寺城の西の小丸山から兵を降ろし、明石飛騨、岡剛介を前衛として備えを固めて待機した。


 元親は宇喜田の旗印を見るや、弔い合戦を果たそうと真一文字に攻めかかり、たちまち前衛の明石隊、岡隊を斬り崩した。しかしこの間に、後陣に控えていた、先手の庄元祐を破った戸川、長船、宇喜田、延原の軍勢が、三村勢の両側面に兵を進めた。そして、前衛を突破し勢いに乗って宇喜多直家本隊に攻めかかろうとする三村勢の両側面から攻めかかった。


 三方向に兵を受けては、復讐の意気に燃える三村勢といえども持ちこたえることはできない。たちまち備えを乱し、総崩れとなった。三村元親も討死を覚悟し最後の突撃をしようとしたが、家来が馬の口をとって西に向かって引き揚げた。宇喜田勢も元々兵も三村方より少なく、中軍の石川勢に手痛い反撃を喰らったばかりなので、あえて深追いはしなかった。


 三村方はこの日、旭川の東の平野で行われた3カ所の戦いの全てにおいて打ち破られ、後には三村方の兵の死体が累々と転がっていた。こうして備中の覇者、三村家は備前の地で手痛い敗戦を喫した。備前西部の豪族は、この戦いを境に宇喜田直家の支配下に入っていくこととなった。


 宇喜田直家の生涯で最も華々しい勝ち戦であり、寡兵をもって大軍を擁する三村勢を打ち破ったことは、直家の優れた戦略眼、戦術眼を示すものである。また、この戦いで宇喜田勢は鉄砲を効果的に使用しており、これは経済的に豊かで、製鉄でも古来より優れた備前福岡の地を基盤とし、鉄砲鍛冶を含む鍛冶職人を早い段階で手元におくことができたことによるものであろう。


 これが後世、「明禅寺崩れ」と言われる戦いである。

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