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四方八方 ~旅行と子猫日記~

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

 備中松山城を舞台に戦国時代、大きな戦があったそうです。松山城は毛利元就の庇護を受けた三村家親という、高梁市の北にある成羽鶴首城(現川上郡成羽町)から起こった豪族が、山陰の尼子氏の加番、吉田左京亮(さきょうのすけ)を攻めて奪い居城としていました。ここを拠点に備中1国を支配した三村氏は次いで備前の国へと侵略の触手を伸ばします。

 しかし、この頃勃興してきていたのが暗殺しまくりで悪名の高い宇喜田直家。備前に侵略した三村家親を久米郡籾村にて鉄砲で狙撃させ暗殺。その子、元親が復讐戦を挑んできた所を明禅寺合戦で返り討ちにします。この戦で備前の支配権を固めた直家は、将軍足利義昭が織田信長に追放されたのを庇護し、京に上ろうとする毛利元就と同盟を結びます。毛利家としては上洛の道筋にあたる備前と同盟関係を結ぶ事で、上洛のルートを確保できたわけです。

 ところが、織田家もさるもの、三村氏に対し、味方すれば備中に加えて備後一国を与えるとの約定を与え、毛利家に反旗を翻させたのです。こうして起こったのが備中兵乱と呼ばれる大戦だったようで、天正2年(1574)から翌天正3年に渡り、毛利・宇喜田連合軍とこれを松山城を拠点に備中全域にまたがる支城で迎え討たんとする三村氏の間で抗争が行われたそうです。

 古来、落ちない城はないと言われますが、それでも松山城は山上にあり松山全体が要塞化されていました。それら全体が一体となって鉄壁の防御を誇っており、また10近くの支城が備中国中にありましたから三村氏もある程度の勝算は持っていたはず。でも、次々と支城が落ちていき遂に本城に敵の大軍を迎える羽目に。上から見ると高梁の町って高梁川に沿ったこぢんまりした盆地にあって、そこを8万騎の大軍が埋め尽くしていたわけで、いざこうなって囲まれてみると相当へこんだでしょうね。松山城に登ったら是非想像してみることをお勧めします。

 当時、肝心の同盟相手である織田家は包囲網を敷かれてあっぷあっぷの状態。とても、三村氏救助の余裕なんて無い。単なる捨て石に使われた公算が大きいですね。でも、仮にもう少し耐える事が出来たなら、逆に備前の宇喜田家が挟み撃ちになった可能性も高く、ほんのちょっとした事がきっかけで人生変わってしまうんだなぁと妙な感慨を抱いてしまいました。三村氏の選択自体は間違いではなくて、天下人はその後の展開をみても織田信長だった訳ですから、反旗を翻す時期が悪かったとしかいいようがない。

 三村氏に比べて、宇喜田直家はその後、織田家に近付き毛利家との同盟を反古にしていますから、立ち回り方がとても上手です。

 結局、松山城も落城し、三村元親は自刃。辞世の句では、葉の先の露として生まれてきて、露に返るだけだ、みたいな事を詠んでいたと思います(人といふ名を借る程や末の露 消えてぞ帰る元の雫に)。とても潔い心映えだと思いました。自分だったら、最後の最後までダダこねてたり、あーだこーだ文句を言ってそうです。命乞いもありそうですね。因みに、元親は細川幽斎(藤孝)に私淑し、和歌にも造詣が深かったそうです。
 
 その子供は幼かったので、寺に預けられましたが、利発であったために復讐を恐れた毛利輝元(毛利元就の孫)に殺されたそうです。子供の名前は勝法師。年齢は当時8歳。捕われましたが、見張りの侍に対し「三村の旧臣で降参したものもあるが、余を見て見ぬ振る舞いは畜生にも劣る!」と言い放ち、堂々たる態度だったとか。その後、井山の宝福寺で斬首される時も、少しも騒がず見事な最期だったらしいです。

 しかし、この辺りも宇喜田直家と比較しないわけにはいかない。直家は自分の祖父能家が謀殺された後、討手を逃れ福岡の市(現在の備前長船)で育ちますが、物心ついた頃からずっと馬鹿のフリをしていたそうです。ある時、それを母親に見抜かれ理由を聞かれると、平然と父親の真似をしているだけと答えたとか。直家の父親は生来暗愚だったそうですが、そのせいで命を狙われることもなかったのです。それを見て自分もという訳です。命狙われてるわけでもなく、警戒されてるわけでもないのにダメな自分とは雲泥の違いですね(笑)。ダメを装っていると言ってみてぇ~………誰も信じないって。

 因みに、尼子氏再興を誓い、毛利家と戦った有名な山中鹿之介も、この高梁の町を流れる高梁川で毛利輝元に殺されています。先立つ播磨の上月城の落城で捕らえられ、毛利家本国に護送される途中で、同じくその才を恐れられたために殺されたのです。お墓が高梁市の南の橋を西に渡った道の先にあります。

 それはともかく、結局のところ、三村氏は三代に渡って優秀だったのだと思いますが、乱世を生き残る知恵(ずる賢さ)にやや欠けていたのでしょう。家親だって1代でのし上がり備中を制覇してますし、息子の元親だって親を殺されて復讐戦を挑んだり、はるか近畿の織田家と結ぶなど、その勇気や思い切った戦略は普通の武将ではなかなかできないものでしょう。孫にしたって、元服前から利発だと称されるんですから、将来はひとかどの武将になった可能性が大です。でも、乱世の申し子のような隣国の毛利元就や宇喜田直家と比較すると、彼ら程には乱世にうまく対応できなかったのではないでしょうか。こんな事書くと、きっと草葉の陰で、お前も現代社会に対応できてないぢゃんって、鋭い突っ込みを入れられてそうですけど。

 ああ、こんなに戦国時代のこと書いてると、「信長の野望」やりたくなってきちっち。もちろん三村で(笑)。良かったら、右の古本市場の検索サイトからどうぞ。古いのから新しいのまで、色んなバージョンがありますよ。また新しいバージョンも出るんですよね。
修正 06 2 21
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