四方八方 ~旅行と子猫日記~

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 砥石城の築城者、築城年代については明確ではない。砥石城を構成する米山城は、小宮山氏が築いたらしい。これを含めた複合城郭群を築いたのは、葛尾城を本拠とする北信濃の豪族・村上氏の可能性が高い。


 砥石城が歴史の表舞台に登場するのは、武田軍の北信濃侵攻に際してである。


 天文17年(1548)2月、上田城の南西にある上田原において葛尾城(かずらおじょう)の強豪・村上義清と激突した武田信玄(当時は晴信)は、重臣の板垣信方と甘利虎泰を失うなど、散々な目にあっていた。


 信濃制圧を諦めない武田晴信は、天文19年(1550)7月に信濃の豪族・小笠原長時を破り、信濃の大半をその手中に収めた。


 そして、同年9月にいよいよ宿敵・村上義清との決戦に赴くべく、兵を進めることとなった。その攻撃目標として選んだのが、砥石城であった。砥石城は、上州道と北国街道をにらむ要衝に築かれ、ここを落とせば北信濃の制圧は容易になる。


 武田軍の総兵力は7千。これに対して砥石城に立て籠る兵はわずか5百。しかし、この半数以上が東信濃の佐久郡にある志賀城の残党で、武田軍に対する怨念の深い兵であった。


 天文16年(1547)、若い武田晴信は志賀城を落城させた際に兵を皆殺しにし、女子供も売り払うなどの暴虐の振る舞いをしていたのである。


 武田軍の攻撃は横田備中守高松が先陣となって始まった。小説などでは南西の崖からの攻撃と書かれていたりするが、実地を見る限り歴戦の武将がそんな無謀な攻撃をするわけがないというのが私の感想である。今の服でよじ登れと言われても答えは「イヤ!」なのに、30キロ以上もあるような鎧を着て無謀にも程がある。殺して下さいと言わんばかりである。


 恐らく、城の大手口、南東の伊勢山方向から攻撃をかけたか、崖を登るにしても決死隊であって、本隊は大手口から攻撃を同時にかけていたはずである。


 話が逸れたが、城方の必死の抵抗にあい横田高松は戦死。部隊もおびただしい死傷者を出した。


 翌々日、今度は小山田信有の部隊が攻撃をかけた。小山田信有は武田軍きっての勇将として知られ、その配下も精強な兵で構成されていた武田軍屈指の部隊である。


 しかし、この攻撃も徒労に終わった。小山田信有は転落し身体を強打して戦線を離脱。部隊も横田隊同様に多くの死傷者を出してしまった。


 こうして力攻めをして攻略に手こずるうちに、上田市の北西にある葛尾城から村上義清が2千の兵を率いて援軍にかけつけた。前面に強固な守りで武田軍を寄せ付けない砥石城、背後には上田原の戦いで強兵振りを見せつけた村上義清の軍勢。南信濃への退路を断たれては一大事である。未だ動静の明らかでない信濃の豪族達もこぞって離反する恐れもあったろう。武田晴信は撤退を決断し退却にかかった。


 しかし、背後を見せた武田軍に砥石城と村上義清の軍勢が追撃をかけた。殿(しんがり)の軍を破られ、怒濤の如く押し寄せる追っ手に、武田晴信も影武者を身代わりに命からがら逃げ出すという体たらくであった。


 結局、砥石城攻略戦は千人余の将兵を失い、武田軍の完敗に終わった。世に砥石崩れと呼ばれるこの戦いは、武田信玄の生涯を通じて、唯一の完全な負け戦となってしまった。





 この後、砥石城は天文20年(1551)、晴信の配下で真田昌幸の父・真田幸隆の謀略によって乗っ取られる。「高白斎記」という文献に「真田乗っ取る」と記述され、詳しい経緯は記されていない。


 得意の謀略戦により城内の将兵の内部分裂を引き起こし、それに乗じて奪い取ったのであろう。真田家は一時期、村上義清によって領地を追われており、幸隆は武田晴信を頼って旧領を回復していく。砥石城の攻略は、武田家での真田の地位の向上に大きな影響を与えたであろう。


 以後のことは明確でないが、砥石城攻略により、真田幸隆が砥石城の東側一帯にある真田郷の回復を遂げたことから、真田の城として運用されていたものと思われる。


 その後、長篠合戦で真田信綱と昌輝が討死し昌幸が家督を継ぐと、砥石城に入城しその居城となった。


 砥石城は真田昌幸が上田城を築いた際にも、その支城として重要な役割を担う。第一次上田合戦では長男の信之が別働隊を率いて立て籠り、第二次上田合戦でも次男の幸村が一隊を率いて立て籠っている。


 平地の上田城の主力と呼応することで、上田城を攻める兵を挟撃する軍事行動を取れる絶好の位置にあったからである。


 関ヶ原後は真田信之の所領となっているが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となったものと考えられる。



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村上義清村上 義清(むらかみ よしきよ、文亀元年3月11日 (旧暦)|3月11日(1501年3月29日) - 元亀4年1月1日 (旧暦)|1月1日(1573年2月3日))は戦国時代 (日本)|戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ河内源氏初代 源
2007/05/22(火) 06:47:23 | あやねのブログ
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