四方八方 〜旅行と子猫日記〜

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 金川城の歴史は、備前の実質的な守護大名であり、有力な豪族であった松田元成が文明12年(1480)に本拠を南の富山城(岡山県岡山市)から金川に移し、築城したところから始まる。


 以後、松田氏の本拠として整備が進められたと伝えられている。


 次第に力を付けた松田氏は備前西部の領有権を固め、備前守護の赤松氏や守護代の浦上氏と争うようになる。


 特に、赤松氏に代わって力を付けた浦上氏との争いが激しく、浦上氏による富山城攻撃や牧石合戦といった戦が行われた。


 元成から3代後の元盛の代になると、勢力を強めた浦上氏によって次第に領地を失っていく。


 その子、元輝の代には、浦上氏の被官で勢力を強めた宇喜田直家によって、近隣の諸城を攻略されていった。


 こうして勢力を削がれた松田氏は、永禄11年(1568)、遂に滅亡の時を迎える。


 先の記事でも書いた要衝・金川城の攻略にあたって希代の策謀家、宇喜田直家が採った謀略戦を書いてみたい。






 松田元成以来、幾多の戦いを繰り広げた浦上氏と松田氏であったが、松田氏の後盾であった出雲の尼子氏の勢力が弱まったため、松田氏の勢力も弱まっていた。


 永禄5年(1562)、この機を見た宇喜多直家は、松田元輝と和議を結ぶ。


 浦上宗景もこれを了承し、直家の2人の娘の1人を松田元輝に嫁がせた。


 こうして表向きは平穏な関係が続いていたが、直家は松田氏を滅ぼす機会を虎視眈々とうかがっていた。


 そんな中、松田元輝は日蓮宗に傾倒するようになり、領内の寺院を強制的に日蓮宗に改宗させ、従わない寺院を焼き払った。


 また、金川城内にも日蓮宗の道場を設け(道林寺丸跡がこの道場のあった場所である)、領内の者に改宗を強いたので、雑兵や百姓は元輝を恨み領内から去っていった。


 好機と見た直家は、徐々に謀略の手を伸ばす。


 松田家中には、宇垣市郎兵衛・与右衛門という軍略に長けた兄弟がいた。


 直家は、ある日、鹿狩りを所望し居城の沼城からやって来た。


 元輝と鹿狩りを催したが、この時、宇垣与右衛門が鹿と間違われて射ち殺された。


 誰が討ったのかは判明しなかったが、実は直家が家臣に命じて討たせたものであった。


 やがて、兄の市郎兵衛も愛想をつかして退去すると、松田氏の領内の統治は乱れていった。


 直家は更に次の手を打つ。


 永禄11年(1568)7月、金川の西に位置する虎倉城の城主・伊賀久隆と与二郎の親子を招いた直家は、金川城攻略を持ちかけた。


 松田氏の領内は治まらず、近隣の伊賀親子も不仲となっていたので、2つ返事で承諾した。


 こうして約束の7月5日が来た。


 直家は手勢を率いて、金川城と旭川を挟んだ対岸の小山に陣を敷いた。


 伊賀久隆も、予め金川城の道林寺丸に潜入させていた忍びの者を使い、鬨の声を上げさせた。


 この時、松田元輝は城外に外出中であったが、家老の横井又七郎が直ちに兵を集め、城門を固く守らせた。


 急を聞きつけた元輝も城に戻り、搦手(裏口)から城内に入った。


 伊賀勢は鉄砲を撃ちながら本丸に迫ったが、横井又七郎も手勢を繰り出して防戦した。


 櫓に登った元輝は、不意討ちを仕掛けた伊賀親子をなじったが、伊賀勢の兵に射殺されてしまった。


 元輝が討死したため、息子の元賢が代わって指揮を執った。


 しかし、伊賀勢の攻撃が激しく、家臣の松村修理が激闘の末、討死を遂げた。


 翌6日、直家も金川城に手勢を繰り出し、伊賀勢と合流して本丸を朝から晩まで攻め立てた。


 しかし、本丸は防御が非常に固く、寄せ手は多数の死傷者を出しても攻略ができなかった。


 戦いの最中、寄せ手は次第に兵数を増したため、城方にも多数の死傷者が出た。


 本丸を支え切れないと見た松田元賢は、弟の盛明を伴い密かに城を脱出した。


 大将が落ちのびたので、部下の将兵の多くも城を退去した。


 伊賀久隆はこれを察知し、兵を励まし猛攻撃をかけ、ついに城門を破って本丸内になだれ込んだ。


 城に踏み止まっていた松田譜代の家臣達は、多勢を相手に奮戦し、城を枕に討死を遂げた。


 城から退去した元賢は、西の山伝いに下田村まで逃げのびたが、伊賀親子の伏兵と遭遇してしまった。


 元賢は覚悟を決め、敵兵の中に斬り入って討死した。


 弟の盛明は、雑兵に紛れて死地を脱し、備中へ落ちのびた。


 こうして金川城は落城し、南北朝以来続いた松田氏は滅亡した。


 7月7日の明け方のことであった。


 以後、この地では七夕祭を催すことはなくなったと伝えられる。






 宇喜田氏の属城となった金川城には、直家の弟・春家が入城した。


 関ヶ原の戦いで宇喜田氏が没落すると、小早川氏、池田氏と備前の領主が交代する。


 城は小早川時代の慶長8年(1603)に、元和元年(1615)の一国一城令に先駆けて出された幕府の施策により廃城となった。


 池田氏の代になると、金川の要衝に家老の日置氏が配され陣屋が置かれた。


 以後、幕末までこの体制が続き、日置氏と家臣の滝善三郎が神戸事件に巻き込まれる。


 神戸事件については、別の記事で書いたのでそちらを参照されたい。



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