四方八方 〜旅行と子猫日記〜

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

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 常山城の歴史は、上野隆徳の祖父・上野肥前守が延徳2年(1490)に備中から児島へと移ったことに始まる。


 彼は常山城を本拠として、児島熊野社領を横領し北部へと勢力を拡大した。


 源平合戦の頃の児島は今のように陸続きではなく、藤戸合戦では源氏方の佐々木盛綱が馬で海を押し渡り平家軍を破っている。


 その後、河川の運ぶ土砂によって児島は備中と陸続きになったが、児島湾(現児島湖)が北東に入り込んでいた。


 このような地勢のもと、常山城は四国と備中を結び、また備中の南から備前へ廻り込む通路を押さえる要衝にあったことになる。


 上野隆徳は備中の覇者・三村家親の娘、鶴姫を嫁に迎え、この常山城にて三村氏の勢力圏の最南端を担っていた。


 三村家親が備前へと侵攻し宇喜多直家に暗殺されると、三村家にとって宇喜田直家は不倶戴天の敵となる。


 しかし、情勢は変わり三村氏の後盾であった毛利氏が宇喜田氏と結ぶに及んで、三村氏は織田氏と結び毛利氏に叛旗を翻した。


 ここに備中兵乱が勃発。


 毛利氏の大軍を引き受けて、三村元親は備中松山城にて滅亡の憂き目をみることとなった。


 常山城は三村本家が滅びたことから毛利氏への降伏の道もあったが、上野隆徳は三村元親の妹婿であったし、その元親に毛利氏への謀反を勧めたのは自分であるとしてこれを拒否した。


 こうして天正3年(1575)、毛利氏は小早川隆景を大将とする大軍を常山城に差し向けた。


 迎え撃つ城兵はわずかに200。


 既に、討死を覚悟した侍達ばかりであった。


 6月4日、城を包囲した毛利軍は、6日からいよいよ攻撃を開始することとなった。


 しかし、城方は攻め寄せる兵を近くまで引き寄せて矢弾を見舞ったため、攻撃側に死傷者が続出した。


 明けて6月7日、再度の攻撃を試みる毛利軍に対し、城方はまたも矢弾を見舞った後に、上野隆徳、嫡子の高秀、弟の高重が城の城戸を開いて討って出た。


 死を覚悟した城兵の突撃に、先手の浦宗勝の兵はたちまち15、6人が突き倒された。


 これに続いて、侍女が押しとどめるのも聞かず、上野隆徳の妻・鶴姫が、「武士の妻が一騎も討たずに自害するのは口惜しい。」と言い放って突撃した。


 侍女と城兵83人も続いて斬り込んだので、寄せ手に多数の死傷者が出た。


 しかし、いかんせん多勢に無勢。


 次第に城兵も討たれていったため、鶴姫も最早これまでと先手の大将・浦宗勝に三村家伝来の国平の太刀を投げ、「後生を弔って欲しい。」と言い放って城中へ引き返した。


 城内に入った鶴姫は、敵兵を防いでおくよう言いおき自害した。享年33歳。


 上野隆徳の嫡子・高秀も続いて切腹した。享年わずか15歳。


 上野隆徳は嫡子の介錯をした後、本丸の大岩の上にて切腹。


 弟の高重はその介錯をつとめた後、自らも自刃した。


 こうして常山城は落城し毛利家の支配下に置かれることとなった。


 小早川隆景は山本四郎左衛門・渡辺伊豆に城番を命じた。







 常山合戦の2年後の天正5年(1577)、毛利氏は常山城を宇喜田氏に与えたので、宇喜田直家の股肱の臣・戸川秀安が代わって入城した。


 天正7年(1579)、宇喜田氏は毛利氏を見限り、今度は織田氏につく。


 これに対し毛利方は、小早川隆景を大将として1万5千の大軍で備前へ押し寄せた。


 しかし、宇喜田勢は当主の直家が病床であったにもかかわらず、弟の宇喜田忠家を大将に7段の陣を構えて待ち受け、戸川秀安の子息・逵安(みちやす)の伏兵をもって背後を突きこれを撃滅。


 世に「辛川崩れ」というこの合戦で、小早川隆景は崩れ立つ味方に成す術無く引き上げた。


 翌天正8年3月、雪辱を期す小早川隆景は常山城付近に進出。


 しかし、これを宇喜田氏本城の岡山城兵をおびき寄せ、背後を断っておいて本拠を攻め取る作戦と看破した戸川秀安は、城の守りを固めて岡山城へも援兵をよこさぬよう申し入れた。


 結局、中国地方に進出してきた織田家の羽柴秀吉の援兵が来るとの報で、小早川軍は引き揚げをせざるを得なくなった。


 常山城からは追手の兵が進出して、多数の小早川兵を討ち取った。


 この後、天正9年(1581)にも毛利軍が児島に進出してくる。


 この時、宇喜多直家は死去していたが、弟の基家が総大将となり八浜合戦が行われた。


 当初、劣勢に立たされた宇喜田方は、大将の基家を流れ弾で失い敗色濃厚となったが、後に八浜七本槍と呼ばれた殿軍の侍の活躍で巻き返し、逆に毛利勢を散々に撃ち破った。


 この後、備中高松城の水攻めを経て、毛利と羽柴・宇喜田の間で講和が成立し、戦乱の時代は終わった。


 常山城は戸川秀安から子息の逵安(みちやす)へと受け継がれたが、慶長4年(1599)に宇喜田家で起きた家中の派閥争いで逵安(みちやす)は宇喜田家を去り、徳川家に預けられた。







 翌年、関ヶ原の戦いで宇喜田氏が没落し、代わって小早川秀秋が岡山城主となると、伊岐真利が常山城に入城した。


 小早川氏も秀秋の病死により断絶すると、慶長8年(1603)に池田輝政の子・忠継に岡山城が与えられた。


 この年、常山城も廃城となった。


 資材は下津井城(倉敷市南部)の改築に用いられたという。


 下津井城は瀬戸内海の海上交通をにらむ要衝にあり、江戸時代に入って海上交通の重要性が増したことや常山城の戦略的価値が薄れたことによる。


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