四方八方 〜旅行と子猫日記〜

興味の向くままあれこれと記録した日記。史跡巡りを中心に旅行情報を主に掲載。天井裏に迷い込んだ子猫の日記も更新中。

 姫路市の北方に書写山という山があります(周辺地図)。


書写山

書写山遠景


 この山上一帯に圓教寺というお寺があります。


 平安時代、康保3年(966)に性空上人が開いた名刹で、和泉式部や一遍上人も訪れ、武蔵坊弁慶もここで修行(大暴れ?)したと伝えられる由緒あるお寺です。


 戦国時代には、織田信長の中国方面司令官として、羽柴秀吉が本陣を置いたことでも知られています。


 映画「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「武蔵」のロケ地としても使用されました。


 山上にはロープウェーを使って上がります。


 麓から徒歩で登っていってもいいですが、山上まで上がって尾根伝いに散策した方が、当然楽です。


 山上では圓教寺まで有料シャトルバスが走っています。


 出来たら歩いた方がいいですが、身体が不自由な方、歩き回るのが面倒臭いって方は利用するといいでしょう。


書写山


 山上の道からは、姫路市街が一望できます。


 正面の山の稜線上、やや左に姫路城の巨大な陰がうっすらと見えます。


仁王門


 道を歩いていくと、この仁王門が見えて来ます。


 江戸時代のもので、日本の伝統的な門の形を受け継いだ三間一戸の八脚門です。


 天井は前後に2つの棟を造り、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」という構造になっているそうです。


 ここより先は聖域とされています。


 管理人のどす黒い心も浄めてもらいましょう。


 その前に入れるのか?


 大丈夫!


弁慶のお手玉石


 仁王門を越えて進むと、下りの坂があって伽藍が建ち並ぶ区域に至ります。


 これは下りの坂を降りた傍らにある護法石です。


 昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子が降り立ち、寺を護ったという言い伝えがあります。


 別名、弁慶のお手玉石と呼ばれ、弁慶はこの石をお手玉代わりにしたという伝説があるそうです。


 チェ・ホンマン選手くらいなら可能でしょうかね(無理だと思う)。


本堂


 弁慶のお手玉石の側から、道の進行方向、正面に見えるのが摩尼殿(まにでん)、別名、如意輪堂です。


 天禄元年(970)に創建されたそうです。


 昔、この地に桜の木があり、天人が舞い降りて、その桜の木に向かって礼拝して言った言葉「如意輪」を性空上人が聞いて、如意輪観世音を木に記したそうです。


 それが御本尊となって、その上に本堂を建てました。


 そのため、背後の岩山に寄りかかる「掛け造り」となったそうです。


 惜しくも大正末期に失火。昭和8年に再建され、現在に至っています。


大講堂


 こちらは大講堂。


 圓教寺の本堂にあたり、お経の講義や論議が行われていました。


 寛和2年(968)に花山法皇の勅願により創建され、その時に圓教寺(えんきょうじ)の寺号を賜ったそうです。


 和様、唐様を合わせた折衷様式の建物です。


 その奥、左側に見えるのが食堂(じきどう)です。


食堂


 承安4年(1174)、後白河法皇の勅願により創建されました。


 僧達が勉学や起臥寝食に用いた寮で、長さは約45メートルあり別名「長堂」とも呼ばれています。


 中は資料館となっていて、古い書物や仏像、弁慶が使ったといわれる机が展示されています。


舞台


 大講堂の向かいに立つのが、この常行堂です。


 ご覧の通り見事な舞台があり、催物も行われるそうです。


弁慶鏡井戸


 大講堂と食堂の間にあるのが、この弁慶鏡井戸です。


 幼少時、弁慶はこの寺で修行したと言われています。


 そのとき、昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きの信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)という荒法師がいたずら書きをしました。


 そして小法師2、30人で弁慶を囲み、大声をあげて笑いました。


 弁慶は目を覚ましたましたが、なぜ笑われているのか見当がつきません。


 そこで、この井戸に自分の姿を映し、いたずらを察知し激怒しました。


 この時の喧嘩がもとで、山内の建物が消失したと伝えられています。


開山堂



 食堂の裏に続く道を歩いていくと、開山堂(奥の院)に着きます。


 開山、性空上人の御真骨を収めた等身大の木像が安置されています。


 寛弘4年(1007)、性空上人の死後、高弟の延照が創建しました。


 弘安9年(1286)消失。


 このとき性空上人の木像も焼けたと思われ、別に木像を造ったそうですが、近年、寺内の蔵から難を逃れた本来の木像が発見されたそうです。


 現在の建物は、江戸時代の寛文11年(1671)に造り替えられたものです。


開山堂屋根の力士


 屋根の隅には、左甚五郎作と伝わる力士像が組み込まれています。


 しかし、北西隅だけはこの力士像が無く、重さに耐えられずに逃げ出したと伝えられているそうです。


 面白い話ですね。


 逃げ出した力士には非常に親近感を感じてしまいます(笑)。


 開山堂の左に見える建物は護法堂拝殿で、弁慶の学問所と呼ばれているそうです。


 弁慶は鬼若丸と呼ばれた幼少時代、7歳から11年間をこの寺で過ごしたと伝えられています。


護法堂



 護法堂拝殿の正面、開山堂の右手にあるのが護法堂です。


 このように拝殿と本殿が離れて建つのは、珍しい造りだそうですよ。


 向かって右が乙天社、左が若天社です。


 乙天、若天はそれぞれ不動明王、毘沙門天の化身とされ、開山、性空上人が康保3年(966)にこの山で修行中、傍らに仕え修行を助けたとされています。


 上人の死後は、この山の守護神として祀られることとなりました。


 建物は室町末期の造りだそうです。







 書写山一帯は自然の宝庫で、散策するととても気持ちいいです。


 ラストサムライを見て武士道に目覚めた人、トム・クルーズが大好きな人、是非訪れておきましょう。


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 太田家住宅の上の間は、七卿落遺跡としても知られています。


 幕末の文久3年(1863)8月18日、尊王攘夷派に属する三条実美を始めとする長州系の公卿が、政変で公武合体派により都を追われました。


 一行は総勢400人以上を20数隻に分乗させ、海路長州を目指しました。


 その途上、8月23日の夜、ここ鞆の浦に停泊。


 嵐の中を休む間もなく、その夜のうちに出航したそうです。


 その後、七卿のうち沢宣嘉(さわのりよし)は生野の変に参加し、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)は病死してしまいます。


 翌元治元年(1864)、五卿は上洛のため再び鞆の浦に停泊。


 今度は7月18日から20日まで、ここ保命酒屋を仮宿としてこの地でくつろぎました。


 この時、保命酒(ほうめいしゅ)を飲んだ三条実美は、その味に感動し以下の和歌を残しています。







 世にならす鞆の港の竹の葉を


 かくて嘗むるもめずらしの世や







 保命酒を「竹の葉」と表現しているようです。


 一行は20日の午後、多度津へ向けて出港しました。


 しかし、21日に多度津へ入港した直後、7月19日に蛤御門の変で長州軍が惨敗を喫したとの報に接し、止むなく再び長州へ下ることとなってしまいました。


七卿落ち


庭園


 上の写真が、その五卿が滞在した上の間の外観です。


 手前の庭には、身分の高い人が駕篭に乗ってきた時に、駕篭を下ろす大石が配置されています。


 下の写真が、その庭を撮ったものです。


太田家七卿落ち


 こちらが五卿がくつろいだという上の間です。


 お茶室としても使えるように、炉を切ってあります。


太田家便所


 はい、こちらは落ちていった七卿が、五卿に減って上っていく時に落とし物をした場所です。


 そこいらのとは違って、由緒あるものです。


 残念ながら、現在は使えそうにありませんでした。







 建築関係の方は、是非一度見ておいてもらいたいです。


 多くの技巧と計算を織り交ぜた素晴らしい建物です。


 茶の精神も取り込んでますから、勉強になると思いますよ。


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 太田家住宅を造った中村家の当主は、この家に幾つもの茶室があることからも分かる通り、随分と侘び寂びや風流ということに気を使う人だったようです。


 そのため、この太田家住宅は片田舎の商家であるにも関わらず、そこかしこに見事な意匠が施されており、単なる成金の家とは大違いです。


太田家天窓


 こちらは玄関にある天窓です。


 滑車を使って開閉出来るようになっています。


 天井も意匠を凝らしているのが分かります。


 こういう何気ないところに、一工夫二工夫と手間がかけられており、見た目は派手ではないのですが、お金がかかっていることをうかがわせます。


 見る人を選ぶ造りですね。


 こういうのを見て、価値が分かる人間になりたいものです。


太田家居間


 こちらは玄関の奥の土間から、主屋を撮ったものです。


 階段は襖によって隠れる仕組みとなっています。


 階段の裏側には引き出しがついており、空間をうまく利用しています。


保命酒蔵

太田家保命酒


 保命酒蔵内部と保命酒です。


 蔵の左手には古備前の大瓶がいくつも並んでいます。


 大窯で焼かれたものでしょう。


 窯元を示す印がありました。


 なんでも鑑定団にも時々こういう備前の瓶が出てきますが、200万を下らない値段がついていたと思います。


 奥に見えるのが、保命酒を造る器具です。


 テコの原理を利用して、木舟の中に入れた袋に圧力をかけ、搾り出します。


 保命酒には、幾つも種類があるようです。


 鞆の街中でも何軒か売ってるお店がありました。


 ここ中村家が持っていた専売権が明治時代になって無くなると、醸造元も増加して競争が激化したそうです。


 ただ、薬味の調合が一子相伝だったため、味は醸造元によって微妙に異なるそうです。


蔵の窓



 蔵の窓を見て下さい。


 こんなところにも意匠を凝らしています。


 窓自体もそうですが、右に開いた部分の黒と白の境界を見て下さい。


 白枠の角の部分が、丸く削られたデザインであることが分かります。


 角を丸く削るのは、技術もいるし手間もかかります。


 こういう何気ないところにも、お金をかけているということです。


太田家建物



 蔵の外観です。


 正面板壁が、屋根に向かって反っているのが分かると思います。


 このように、太田家住宅では至る所に曲線、丸みを持たせているのです。


 建築関係の方ならよく理解出来ると思いますが、このような造りは非常に手間がかかって面倒臭いです。


 きっと主人の要望に、多くの棟梁が苦労したでしょうね。


庇



 こちらは庇です。


 ご覧の通り、曲線を使って波のように仕上げられています。


 注目すべきは、外から一見して分からない奥の部分も同じように仕上げられていることです。


 左官さんは、大変だったでしょう。


太田家天井


 大広間の天井です。


 これまた素晴らしい天井です。


 この天井だけで家が一軒建つんだそうですよ。


 何が素晴らしいか分かりますか?


 よく見てみると、全ての板の筋が一定方向であり、穴や木の年輪が全くないことが分かります。


 このように用材を揃えるのは、とても難しいしお金がかかるというわけです。


太田家地下金庫


 こちらは土蔵の下にあった地下金庫の跡。


 現在は上の土蔵が無くなり、地下金庫の跡だけが残っています。


 火事になっても、泥棒が入っても大丈夫ということですね。


 次回は、七卿落ちの際に、公卿が立ち寄ったといわれる上の間などをアップしたいと思います。


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太田家住宅通り



 広島県福山市の鞆に、幕末に京都を追われた長州系の公卿(いわゆる七卿落ち)が立ち寄った太田家住宅という古い商家があります(周辺地図)。


 平成3年(1991)5月31日に、重要文化財の指定を受けた見事な建物です。


 鞆の浦に来たら、この建物見学は必修です。


 上の写真の左側の建物がそれで、入口が写っています。


 通りも風情があっていいですね。


 建物は、江戸時代中期から後期にかけて、保命酒屋を営んでいた中村家によって建設・拡張され、明治期に太田家が受け継ぎ現在に至っています。


太田家玄関


 玄関を入ると右手に店の間があり、保命酒(ほうめいしゅ)の材料が展示されています。


 餅米を主原料に、焼酎、20種近くの漢方薬を使って醸造されます。


 江戸時代初期、萬治2年(1659)に中村吉兵衛が藩に願い出て、「焼酎製名酒」の製造販売を開始。


 貞享2年(1685)、藩主に保命酒など4品を献上して名酒御用所の指定を受け、宝永7年(1710)には藩から一手醸造販売権(独占製造販売権)を与えられました。


 これにより、代々に渡って巨利を得る事ができたというわけです。


 ところで、保命酒と聞いて、何か思い浮かびませんか?


 そう、実はこの保命酒は、養命酒の元になったお酒なんだそうです。


 元々は、この中村家が家業として始めた保命酒造りですが、これに目をつけた養命酒の製造元が杜氏の1人を引き抜いて作ったのが養命酒なんだそうです。


 その際、秘伝の調合法の最後の2種類の材料を知らなかったため、養命酒を作るのに苦労したんだとか。


 しかし、苦労の甲斐あって、現在では養命酒の方が有名になってしまってますね。


 ヒット商品の元に思わぬ裏話ありです。


 太田家住宅にはボランティアの方がいらっしゃって、このようなお話や建物の細部について教えて下さいます。


 訪れたら、是非話を聞いておきましょう。


 続きは次の記事で。


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松尾芭蕉句碑


 大可島城跡に建つ円福寺の境内には、松尾芭蕉の句碑がありました(周辺地図)。







 疑な


 うし保のはなも


 浦の春







 前文に「二見の図を拝みて」とあり、元禄2年(1689)に伊勢の絵を見て詠んだ画賛ということです。


 句碑は、安永6年(1777)に建てた石碑を再建したもので、碑文は備後の俳諧の指導者であった鼎左(ていさ)の筆によるものです。


 句意は、「くだけちる波(潮)の花をみると、この浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑ってはならない。」という意味だそうです。


 実際に、芭蕉がこの地に来て詠んだものではなさそうですね。


 しかし、朝鮮通信使を始め多くの船が出入りし、華やかであったろう自然の良港、鞆の津に相応しい句ではないでしょうか。


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